自由
正しい形の言論の自由
H2202権寧仁
外部の拘束を受けずに自分の判断と意志によって選択し行動できる状態、すなわち<自由>は当然保障されなければならない人間の普遍的権利です。 その中でも、自分の意見を自由に述べることができる言論の自由は、以前に比べて現代社会ではさらに重要視されている傾向を見せています。 しかし、私はこのような言論の自由が時には、社会のために自由の一部分を拘束することまでも許容しなければならないと思います。
過去とは異なり、近年の多くの人々は、様々な手軽で簡単な方法を通じて自分の意見を広く拡散させています。 例えば、SNSプラットフォームの代表のユーチューブでは、多くのインフルエンサーが自分の考えを不特定多数に露出させ、視聴者はそのような映像に対する自分の考えを自由にコメントすることができます。 このようなメディアプラットフォームはユーザーの言論の自由を保障することが特徴的ですが、その反面、過度な言論の自由が色々な問題を起こすことがあります。
誹謗中傷は言論の過度な自由によって浮き彫りになる代表的な現象です。 現代人は自分の意見を何の制限もなく自由に述べることができるため、非常に些細なことまでも敏感に反応し、これを色々なメディアを通じて表現しています。 これは社会に多様な意見を形成し、良い影響力を与えることもできますが、悪影響を及ぼす場合がより多いです。
例えば、私には動画が更新されるたびに動画を見る、大きくはないけど大好きなユーチューブチャンネルが一つありました。ですが、ある日からそのYouTuberのチャンネルに悪質なコメントを書く人が現れ、そのような悪質コメントが2週間続くと、その人はユーチューブ映像アップロードを止めてしまいました。僕は大好きだったチャンネルが悪質なコメントによって被害を受けるところを見てから、言論の自由という名目の下で制限なくただ自由なだけのコミュニケーションが果たして人々を幸せにさせることができるのかを疑問に思いました。
また、2020年「テラスハウス」という日本の芸能番組で、ある女性参加者が他の参加者に向かって怒る場面が流れたことがありました。これは番組の特性上、出演者が自身の感情を自由に表せる自然な姿でありましたが、視聴者たちは過剰な反応を示し、出演者は批判の的になってしまいました。 多くの人がその女性に対して絶えず否定的な発言をし、これに耐えられなかった女性参加者は結局自殺をしてしまいました。もし、事前に誹謗的な書き込みを検閲し、悪質な書き込みをしないよう制限していたのなら、このような悲劇的な状況は起きなかったと思います。
そもそも、自由とは人間が享受すべき基本的な人権であり、人権の意味はすべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利であります。 したがって、人権の一つである言論の自由が人々の幸せを追求する権利を妨害しようものなら、人権はまともに保障されないのです。 もちろん、個人の意見は抑圧を受けてはならず、自由に表現しなければなりませんが、私は、無意味な悪質なコメントと人に深い傷を与えるようなコメントは迅速な検閲と削除を通じて制限されるべきだと思います。そうすることで、初めてすべての人が言論の自由を通じて真の意味での幸せを追求できるのはないのでしょうか。
Posted by 돈마니